リアル

手足に不自由が無い方は、ご自分の右手を見て頂きたい。

どうだろう。そこにあるだろうか?動かしてみる。自分の手だ。近くに他の方がいれば、他人の手を見つめて頂きたい。その他人の手は自分の手じゃないか?などと疑問が湧いてきたりしないだろうか。普通はしない。実感を持って、リアルに、この手は自分の手であると断言できるだろう。疑問の余地など無い。なぜか.......?

実は、仮想現実にリアリティーを持たせるための実験において、ヒントとなる現象の発見があった。実験は実にシンプルなものである。

1.机を用意する。

2.机の上に、「ゴム手袋」を置く。置くのは右手、片手のみとしよう。手の様な形であれば、実は何でもかまわない。

3.右手を机の下に隠す。つまり視線から遮蔽する。

ここで、「ゴム手袋」の指を鉛筆でつつく。その様子を見つめる。1秒に一度程度、規則正しくつつく。そして見つめ続ける。同時に、隠した方の右手の同じ場所を、同様に鉛筆でつつく。つつく動作をシンクロさせるのがポイント。

すると、あーら不思議。その置いてある「ゴム手袋」が自分の手であるかの様な実感を”感じる”のである。

これは、もちろんゴム手袋を他人の手に置き換えても同様に発生する現象で、”手の様なもの”に、”刺激が加えられる”ところを観察し、”その刺激が、触覚と同期”し”一定期間継続”することがポイントなのである。

体に対する”実感”というものも、脳が行っている機械的な認識活動の処理結果なのである。しかも、単純な法則に依存しているらしい。

リアルと世界の間

世界は決してリアルではない。リアルな現実とは、物理法則に支配された世界に対して、脳による処理を行った結果なのだ。例えば、美術の時間。多くの人は、人体のデッサンを”見たままに描け”と言われても、写実的に描くことは出来ない。”目”がある、”口”がある。見たものは既に解釈され、こんな感じの絵になってしまうのだ。

(実は脳の高度な認識による挿絵)

考えてみると、幼児の段階から、ヒトがこのような絵を描くということは、ヒトが視覚に対して、極めて原始的な段階から認識処理を施しているということを示しているのである。

名著、脳の右側で描けでは、「 写実的に描くためには、まず形を描く。そのためには脳の解釈を排除する。たとえば写真を逆さまにして、それをデッサンする」などとガイドされる。当時はそれを脳の左右の違いに論拠を置いて解釈していた。ただ、その後、脳の視覚領域のの研究が進むにつれて、視覚野は、極めて初期の段階から並列的に、線の傾き、形状、動きなどを専門に処理する領域を持っていることなどが解ってきた。(参考 脳は美をいかにして感じるか)  つまり、視覚はその初期段階から脳による処理を受けている。私たちが見ているものはけっしてありのままの世界ではない。デッサンの困難さは私たちが脳の処理結果から離れることの困難さを示している。

脳による認識によるリアル発生と消失の別の端的な体験は、ステレオグラム(KONDO's Stereogram Workshop, 立体もじ太)だろう。同じ画像が、平面から、突然立体になり、見えなかった模様も見える様になる。脳による画像認識処理が介在した瞬間だ。そして、それは、急激に消失する。芸術家とは、この色、形と、そこから喚起される脳の認識処理を切り替えながら描ける人たちなのだろう。

我思う故に我アリ

確かにデカルトに脳が存在しなければ、リアルな自己の存在認識は無かっただろう。ただ、その「私」とは、鉛筆と手袋の同期に過ぎないのかもしれない。