科学者は科学技術信仰に陥るか?

日頃から感じていたことの中に、「科学技術信仰に陥る人は科学技術をしらない」という、法則があるが、Asahi.comにおける梅原の文章を読んで、その確信を深くした。

科学者とは、表面に現れる現象に潜む法則の発見に喜びを見出し、かつ、その法則の延長に新しい応用の可能性を予見する人たちであるが、自然に見出された仕組みは、法則を発見するほどに、不可思議であり、根本的な原理などというものには到底、到達することなど出来ないと知っている人たちで もある。これに対して、いずれかの”信仰”に陥る人は、何か”確実なもの”をまず最初に確立しようとする。それは、科学技術であったり、宗教であったり、道徳であったり、哲学であったりする 。アプリオリに与えられたものであるにもかかわらず、事後的に正しさが論争される点において、その特徴があるのである。

さて、数学的な考え方だが、「有効グラフ」というものがある。簡単に言えば、方向を持った矢印のつくる”関係図”みたいなものだ。

論理的な、仕組みは、この「有効グラフ」にマップ出来る。

A ならば、b

A かつ C ならばd

こうした記法を使うことで、おおよそ、すべての論理関係を表すことが出来る。つまり、論理構造を矢印の結合図にマッピングできるのである。

さてさて、当たり前の定理として「有限な有効グラフには、始まりがある」、始まりがない場合、それは、「無限連鎖(注1)を持つ有効グラフ」である。どちらかなんである。(あたりまえでしょ?)この当たり前なことを理解していない人がとっても多いんである。

これは、どーゆー意味か。論理は、Aだから、Bというように、根本的に有効グラフで表させる、矢印のつながりである。この矢印のつながりを逆にたどっていく 。論理の依存関係を逆にたどるのである。そこで、”端”があったとしよう。その”端”には、もう、よって立つ、論拠はない。

つまり、「何かの正しさを論理的に証明するためには、正しさを論理的に証明できないことに依存しなければならない

 その前の論拠がないから端だ。これを、”末端原理”と呼ぶ。数学で言うと”公理”、哲学や宗教なら、”信仰”ということになろう。強いて言うならば、この”端”の原理の正しさは、その後の論理展開が破綻しないかどうか、つまり、無矛盾かどうかで計られる。数学の場合、この無矛盾性自身も、証明不可能であったり、矛盾する体系がOKであったりする。多くの科学では、それは、”仮説”という形で扱われる。 大事なのは、どんな理論/説明も、こうした証明不可能な”末端原理”を仮定し、そこから派生していることだ。根無し草なんである。

さて、わたしの考えでは、科学的な人とは、この”端っこ”、末端原理の相対性を認める人である。これに対して、哲学者や宗教家は、”端っこ”の相対性を認めず、絶対性を主張するが故に、時に、意味無き無限連鎖に陥る人のことである。

数学者であれば、公理系の無矛盾性の証明は不可能であると知っているし、物理学者は理論や仮説を検証するが、その絶対性にはつねに疑念を呈している。末端は、末端故に、論拠もなく証明も不可能なんだから仕方ない。 これに対して、哲学する人や”信仰”を持つ人は、末端原理を”証明”しようとする。証明できないから原理なのに、その末端性を認めようとしない。故に、矛盾に陥るか、無限連鎖におちいる。 唯一絶対の神の予言は正しい。それはそれでよい。正しいんだから仕方ない。しかし、その証明不可能な正しさを立証しようとするからややこしくなるのだ。そして時には、「確かなものなど無い」などと無原理性を、重要な原理の様に主張しさえするのだ。

神の愛。 我思う故に我あり。腹が減った。誰かのことが好きだ!人間万歳。感動したっ。空き缶はくずかごに。あなたか望むなら、そこから出発しても良いのだ。科学技術の正しさも、腹が減った正しさも五十歩百歩だ。ただ、その定立された、末端原理には、相対的な見方があると知っていれば良い。 あなたの空腹を誰に証明する必要があろう。あなたの空腹の非存在性を、説明しようとするヤツがいたなら、「そうですね」とでも言って、握り飯を食ってやればよい。「あー、うまかった。確かにもう腹は減ってません」と。

さて、 梅原は言う。「科学技術の便利さの中に人間性が失われている」と。「近代に、科学と宗教は抗争し、科学が勝利を収めた」と。ステロタイプなこの言葉は、単に科学技術のアンチテーゼとして、人間性を定義したフレーズに過ぎない。

科学と宗教が抗争をしたことなどはない。宗教はいつでも自由に、末端原理を定立させて良い。それは学者が自由に仮説を持って良いのと同じだ。ただ、便利さや効率よりむしろ科学主義は唯一、末端性の相対化をもたらした。これは、末端原理が、その末端性故に持っていた性質に過ぎないが、人を不安に陥れる。

 

最初の王子様は「ボクは君を幸せにしてみせる」そう言い残すと、お姫様を残し、彼女を幸せにする方法を求めて長い長い旅に出て二度と戻っては来ませんでした。

次の王子様は、「ボクが君を幸せにしてみせる」そう言い残すと、がむしゃらに働き、やがて衰弱しながらも満足した顔で死んでしまいました。

そんな身の上話を聞いてくれた3番目の王子様にお姫様は聞きました。「わたしは幸せになれるのかしら」、すると3番目の王子様は、瞳を見つめながら「ボクは幸せだよ。ほら、君も」と言ってくれました。こうして お姫様は初めて、幸せになることが出来ました。めでたしめでたし。

でもお姫様は手に入れたこの幸せがホンモノなのかを確かめたくなって、やがて遠い国に自分を探すたびにでて、やはり二度と戻っては来ませんでした。(注2)

おしまい

 

これが現代である。

幸せすら 何か正しい原理に依存し、証明してもらわなければいられない、とするならば、それこそが現代の病であり錯誤だ。 時に科学的と考えられる人も、相対化された末端原理の海に耐えきれず、オウム事件の様に、”確かな”幻想を与えてくれる人の元に走ってしまう。決して、現代に宗教や原理や道徳が欠如しているのではない。 むしろ単一の宗教や道徳律の支配と保証の元、疑うことの出来ない原理原則の支配する世界より、迷いながら、時に、犯してしまった失敗に胸をかきむしる様な痛みを感じる方が、よほど人間的といえる。

様々な、末端原理が、対立し、それぞれが、独尊性を主張する近代。それは確かに混乱した時代だ。しかし、それこそが、諸行無常、唯我独尊。

梅原は、オシャカ様の言葉を忘れてしまったのだろうか?

 

注1

無限連鎖する場合。これは、循環する場合と、循環しない場合に分けられる。

循環する場合とは

a−>b−>c−>a のような形。

循環しない場合とは、より根本的な原理が、芋づる式に、永遠に続くような形態である。

 

注2

昔からあったね。

「赤い靴、履いてた、おんなのこ。

じぶんを探しに、いっちゃったー」