多重的わたし

子供の頃から繰り替えしみるビジョンの一つに、「再生される私」というものがある。

体を構成している物質の配列(エネルギー順位)が、全く同一であったとするならば、その配列は、「わたし」としての意識を持つであろう。ところで、特定の原点の周辺に、有限個の素粒子が存在する場合に、多体問題故に正確に解くことは困難だが、 安定したエネルギー状態におけるその系のとりうる解としての状態の数は有限である。

さて、”わたし”を構成するに足る十分な数の素粒子が存在する系を考えると、その粒子の系のとりうる状態すべての集合の一部の状態に、”このわたし”が存在する。状態の数が有限しかないのであれば、時間が無限にあるならば、”このわたし”が将来再び出現する確率は、1に極めて近い (注1)といえる。有限の組み合わせのうちで同じ配列をとりさえすればよいのだから。つまり、時間の流れが無限(注2)と仮定するとき、

「わたしは、繰り返し再生する」

といえる。

少年の私にとっては、もっと原始的なロジックを考えたものの、基底に流れる発想は同一であり、このアイディアは、しばしば、極めて強い恐怖感をもたらした。 観るものとしての永遠。それがなぜ恐怖であるのかは未だに判然としないが、本能的な忌諱とでも言うものであったろう。

ところで、この考えを再び思い出したのは、量子計算機の実現性に関する資料を読んでいたときである。素因数分解を行うShorのアルゴリズムの基本は、周期関数の性質を利用して、倍数に相当する量子状態をキャンセルできることに立脚しているが、この計算プロセスの実現性を考えると、計算過程で”リアル”に操作可能な量子状態というものがいわゆる量子論のコペンハーゲン解釈のように、観測プロセスによって消えてしまうマボロシのような存在であることに違和感を覚えるのだ。

他の可能であった量子状態は、単に因果律の地平に隠れてしまうだけなのではないか?

このような考えで、文献を検索していたら、コペンハーゲン解釈とは別に、”多重世界解釈”を体系化している学者がちゃんといた。単に、私は不勉強であったのだ。すみません、物理は専門じゃなかったもので。

Dr. Hugh Everett III "Relative-state metatheory" 1957

多重世界的な量子論の解釈によると、遠い未来を考える必要もなく、私のすぐそこにもう一人の私がいることになる。というより、すべての可能な量子状態の海の中を漂っている因果律の船が世界であり、いまこの瞬間にも、因果的に分離した多数の世界が同時に存在することになる。

あなたは、いま、大切な人に関する重要な決断を下した。迷った末の決断は、あなたの脳のニューロン発火があるしきい値を超えた結果によるカオス的過程だ。しかし、それは、偶然脳の中で励起した酸素がラディカル化したことに連鎖されているからであろう。そのとき、最外郭電子の順位が高いエネルギー順位で確定しなければ、違った決断をしていたのかもしれない。

多重世界には、異なった決断をしたあなたが、今、そこに存在している。因果律に隔てられ、二度と世界を共有することのない分離してしまった無数のあなたが 確かに存在するのだ。

 

そんな考えに囚われ、感傷的な気分にひたりつつ、なんとなく心が慰められるのは大人になったからだろうか。 別の世界に”存在”する理想のわたし、間違いを犯さなかったわたし。

 

ただ、こうして考えるとそもそも”わたし”ってなんだろう?原子の配列なのか、仮に、すぐ隣に同じ素粒子の状態/配列をもった私が立っていたならば、わたしはそのわたしをわたしと感じるだろうか?いや、それはあり得ないだろう。 因果律、距離、時間、確かに存在するとしても遙かに隔てられた”わたし”など実感できるものではない、たとえすぐそばにいたとしても気配すら感じることもない。そもそも、わたしを構成する物質も、その配列も、ひとときとして同じではない。

脳科学の養老センセイはおっしゃった、「”自分”とは、活動の一貫性を保持するための、脳の同一性認識能力に過ぎない」と。

私にまつわる記憶と、その記憶の累積の延長を”わたし”と認識する力。 あなた、にまつわる記憶と、その記憶の累積を、あなた、と認識する力。自己にしろ、他者にせよ、変化し続けるものに現れる同一性を認識する作用そのものが同じ源を持つわけだ。それは、本質において同一であるはずのないものに、同一性を見続ける認識力。この根元に存在する矛盾こそが、人間活動の喜怒哀楽の源泉になっていると考えられる。

あなたを愛する私。変わってしまった、わたし。変わってしまった、あなた。楽しい思い出、あなたの思いで、悲しい思いで、わたしの思いで、それでも、あなたを愛する私。

よくある感傷的言い回しに含まれる真実は”わたし”や”あなた”が変わったことではなく、実は、流転する現象のなかに”あなた”や”わたし”を見いだそうと脳は躍起になっているという逆説だ。

短時間では、行動の一貫性に寄与するこの能力も、激しく変化したものにまで適用されれば問題を孕むのは当然だ。さて、灰になってしまった亡骸にさえ、思い出を投影して、人格を見いだしうる脳の能力とは、果たして、人そのものにとって幸福をもたらすのかどうか。と言いつつ、”人”つまり、その幸福の対象すら幻影なんだね。

はてさて、遙か未来、再生された”わたし”も、こんな風に考えるのだろうか。

 

注1

たとえば、サイコロを100万回投げて、百万回1が出続ける確率は、極めて小さいが0ではない。サイコロをなげつづけて、永遠に1しかでない確率は、極限値としての0だ。しかし、そのような数列は、存在する。 本質は、この無限数列の集合測度が(無限としての大きさ)が整数全体のよりも大きくなっていることだ。無限を扱うと、ここのところが難しいよね。

注2

時間、空間は無限か?

ビックバン仮説登場後のしばらくは、宇宙は閉じており、時間と空間は有限と考える学者が多かった様だが、最近の観測結果によると、どうやら宇宙は開いているらしい。つまり、空間的には無限。収縮もしないので時間的にも無限ということになる。空間の体積あたり密度は、0ではなく、有限な大きさを持つので、これも広く信じられている様に、物質分布の均質性を仮定すれば、総質量も無限。

.....無限ですか。神秘ですなぁ。