量子計算機

投資を検討する上で定期的に技術動向の見直しを行っている中で、動向を注視している技術領域の一つに「量子計算機」がある。実現までは十五年から五十年。人によっては絶対出来ないという研究者もいる分野である。否定的になるのも無理はない。単に早いとか、高機能なのではなく、もし実現すれば今まで不可能と考えられていた計算が可能になるものすごいブレークスルーなのである。仮に小規模なものでも実証モデルが出来れば、その後二十年くらいのコンピューターの高速化を支配するコアテクノロジーになると考えられる。

そもそも、量子力学を論理や計算に応用する考え方は私が学生の頃から存在していた。しかし、その多くはおもちゃのような学問の域を出るものではなかった。量子計算機に関しても基本コンセプトそのものは1980年代に確立されていた。しかし、転機は1994年に訪れる。ベル研のShorが量子計算モデルを利用して、整数の因数分解を多項式的な時間で解くアルゴリズムを発見しちゃったのだ。

Shor,P.W Polynomial-time Algorithm for Prime Factorization and Discrete Logarithms on a Quantum Computing SIAM Journal on Computing

これがどの位どえらいことなのか。数千素子規模の量子コンピューターを実現できれば、今までのコンピューターをどんなに高速化し、大規模にして、どんなに長い時間稼働させても解けなかった問題が解けてしまうのだ。現在使われている数値計算ベースの暗号は無意味になってしまう。また、組み合わせ問題のように、今までの計算能力では事実上実用的な問題が解けなかった領域に対しても計算の適用が可能になる。たとえば、細胞内部の遺伝子とタンパク質の相互作用のような複雑なシミュレーションのようなものである。また、量子計算機が仮に実用化され、初期の装置が大がかりな施設を必要とするのであれば、コンピュータの分散化の流れをまた集中に押し戻すかもしれない。なぜならば、その一台の計算能力は他のコンピュータすべての能力を合わせたものを上回る可能性があるからである。

量子計算機の数学的なモデルは、意外に単純であり複数の素子のとる物理量を表す複素ベクトルのテンソル積で表される状態空間上のユニタリー写像としてあらわされる。状態空間とは、複数の素子のとりうる物理的状態全体のことである。

状態空間とは、かいつまんで言えばそれぞれの素子がとる物理状態の組み合わせすべてであるから、古典物理の体系で考えても、一つの素子を追加する毎に指数関数的に増えていく。しかし、古典物理の枠内で考える限り、状態空間のベクトルは”素”なのだ。つまり、中身が詰まっていない。これに対して、量子力学では、状態は重ね合わせられ 、中身が詰まっている状態で操作できるのである。これにより、素子の追加に対して指数的に増加する状態空間の上で演算を展開できるのである。

ただし、もちろん量子力学がベースとなっているために、最終的に演算結果を確認するためには、エルミート作用素による”観察”をしなければならない。観察の結果は、量子力学の必然として確率的に観測値が変わってしまう。Shorの偉いところは、観測の前段階で、巧みに状態遷移を行わせて、得たい答えを得る演算操作を工夫した点にある。

さて、現実に戻ると、理論的には確立されている量子計算機だが、実用となると道は遠いようである。

  1. 演算に相当する物理操作として実用に耐えるものがまだない(回転角にそうして180が理想だが、まだ20程度)
  2. 演算(状態遷移)を複数回行えるのに十分な時間の量子状態を保てない
  3. 複数素子を量子的に関連させつつ演算することの再現性が低い
  4. 量子状態をそのまま伝える”バス”がない

などである。まだどんな素子を使って良いのかの結論も出ていないのである。また、時折新聞などに載る量子素子は、量子計算機で言うところの量子素子とはほとんど関係がない。

ただ、技術開発は、「これでできる」という所までの発見には時間がかかるもののその後の改良フェーズでは極めて迅速に進展していくものである。94年のShorの発見が驚きであったように、ある日突然に驚きがやってこないとも限らない。

シリコントランジスターの発見から1990年代に光多重化通信(WDM)の研究が進展したときまでErビウム添加ファイバーや発光素子などで原子の電子軌道のエネルギー順位を操作することで新しいデバイスが生まれ、純化した結晶の生成や不純物の均質な拡散に関するテクノロジーが結果的にテクノロジーの進展を支えた。はたして21世紀に量子状態そのものを保持し操作する時代は来るのだろうか。